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マハームドラーグルヨーガの手引書

無智の闇を取り除くマハームドラー

カギュー派

マハームドラーグルヨーガの手引書      準備段階の修行

1 死と無常

 もしあなたが無常について瞑想することがないなら、この世の関心事から心を離すことができないでしょう。そして心を離すことができないなら、サムサーラ、輪廻から解放されることはないでしょう。

 これに関してナーガルジュナは、その書『スーフリレクハ』の中で次のように述べています。

「我の命を害するものは数多くある。なぜなら命は風によって簡単に破裂してしまう水泡のようなものだからである。息を吐き出した後にまた呼吸し、眠った後また目が覚めるというのは大きな奇跡である」と。

 一般的に言って、すべての条件付けられた現象は無常であり、特に有情の生き物の生命力は、水泡のようにはかないものです。自分がいつ死ぬかだれにもわかりません。今死なないという保障はどこにもないのです。加えて、死のときにはダルマ以外助けとなるものは何もありません。

 もしこの世の意味のないこと、この世の活動のために努力するなら、苦の原因を超えることはできません。

 ゆえに、心が瞬時でも現世の食物、衣服等に向かうなら、死のことを考えようと心に誓わなくてはなりません。

【解説】すべての条件付きの現象、原因と環境に依存する現象は無常です。これには動くもの、動かないもの、有情の生き物、その環境、すべてが含まれます。今日確固としている建物も、明日は崩れて瓦礫(がれき)と化してしまうかもしれないのです。特に人間の生命力は非常にもろく、簡単に失われてしまうものです。だれもが自分が明日生きているとは保障できないし、その時がやってきたときには、友人も医者も薬もお金も名声も、死を止めることはできません。

 ただ一つ頼りになるもの法の実践だけです。もし生きている間に功徳をたくさん積んでいるなら、平安のうちに死ぬことができ、白いカルマの結果として幸運な転生が約束されています。

 ゆえに、感覚の喜びが永遠の幸せをもたらしてくれるという考えに惑わされてはなりません。

 もし、美しい景色にとらわれたなら、炎に引きつけられ死に至る蛾(が)のことを考えましょう。音に関しては、狩人の取り寄せの声に誘われてしまう鴨(かも)のことを考えましょう。

 蜜蜂(みつばち)はハエジゴクの臭いに引き寄せられ、ハエは糞(ふん)の臭いに引き寄せられてトイレで溺れて死んでしまいます。魚は釣り針の先に付いた虫が食べたいばかりに釣り上げられてしまいます。象は体をかきたいという欲求にとらわれて、飼い慣らされた仲間に導かれ、二本のトゲの付いた木の間に捕らえられて、つながれてしまいます。

 これらの例について考え、現世の喜びは新たな苦の原因にほかならないことを理解し、それから離れます。

 今にも死んでしまうかもしれないことを認識し、つまらないことに時間を無駄にしないようにします。食べ物、着る物を死刑囚が最後の食事を見るような気持ちで見つめましょう。

 今まで何人の友人や親族が亡くなったかを数え、彼らの死んだ様子を考え、その死体が焼き場に持っていかれ、ついには骨だけになってしまったことを考えます。そして、自分も同様のことを免れ得ないのだということを考えて、死刑執行人の手に引き渡された人が持つような恐怖の状態に、自分を持っていきます。

 心を散漫にして逃げてはいけません。この世に完全に興味がなくなったとき、完全にこの状態に心を没入させて瞑想します。これが死と無常の瞑想です。

【解説】これらの瞑想は、あなたの気を滅入らせるのが目的ではありません。もし瞑想の結果、悲観的になって苦しみ、「自分は死ぬ。そしてそれをどうすることもできない」と考えるなら、この瞑想は苦しみの原因となるだけです。

 死の瞑想の目的は、あなたに法の実践をさせ、カルマの法則を考えるようにし、未来の転生を左右するためには何をなしたらいいかを教えることにあるのです。戦いの場に入っていく勇者を鼓舞(こぶ)するように、あなたを鼓舞することが目的なのです。ミラレパは言っています。

「わたしは死を恐れて山に入った。しかし自らの心のダルマカーヤの本質を知った今、もう死が来ても怖くはない」と。

2 カルマの因果の法則

 この後、カルマ、因果の法則に照らして、何をなし、何をなしてはいけないかをはっきり知ることが必要となります。

どのような生き物であっても、自分のなしたことの果は必ず自分に返ります。

 さらに、十の悪業をなすならば、不運な転生と呼ばれる状況のもとに転生することになります。

 三つの毒のうちのどれかを使ってその要素がなされたか、どれくらいの頻度(ひんど)でなされたか、その対象はだれか、その程度は重いか、中位か、小さいかによって、地獄に生まれ変わるか、餓鬼に生まれ変わるか、動物に生まれ変わるかが決まります。

 もし、この三つのうちに生まれ変わるなら、計り知れない苦しみを味わなければなりません。

 反対になした善行の程度、大きな善行か中位の善行か、小さな善行かによって、無色界、色界、あるいは欲界の天界のうちのどこに生まれるかが決まります。

 ゆえに自分のなす行為を身・口・意の三つの門を通してチェックすることが大切となります。

【解説】因果の法則の基本は、幸福は善業、あるいは“白い”カルマの結果であり、苦しみは悪業“黒い”カルマの結果であるということです。

 さらに、その人のなしたことはその人にだけ返ります。つまり、もしあなたが人を殺すなら、その果はあなたの両親でも子供でもなく、あなた自身に返るということです。

 ゆえに、もし自分、そして他人を利することを望むなら、残酷な行いをやめ、親切な行ないをなすようにしなくてはなりません。

 十の悪業は、三つの身の悪業、四つの口の悪業、三つの心の悪業に分けられます。

 身の悪業とは、殺生、自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、姦通(かんつう)、強姦(ごうかん)といったような正しくない性行為を行なうことです。

 四つの口の業とは嘘、人を仲たがいさせる言葉を話すこと、悪口あるいは粗暴な言葉を話すこと、無駄話・噂話をすることです。

 心の悪業とは、他人に属するものをむやみに欲しいと思うこと、邪悪な思いを持つこと、そして、例えば因果の法を信じないといった誤った信念、考えをもつことです。

 並の十の善行とは、十の悪業をなさないことです。しかし、十の特別な善行とは、他の命を救うこと、寛大であること(布施をなすこと)、戒を守り、そして他にも同じようになすことを勧めること、誤解を生まないように真実を話すこと、ケンカの仲裁(ちゅうさい)をし、敵を仲直りさせること、優しく静かに話すこと、教えや祈りのように意味あることを話すこと、欲を持たず満足を知ること、他に対して善い思いを持ち、正しい宗教を信じ、その教えに確信を持つことです。

 もし他の命を救い、殺生を行なわないなら命は長くなります。反対に、繰り返して殺生をなすなら命は短くなり、病が続きます。

 人に施し、盗みをなさないならば豊かになります。しかし、盗みを行なうならば貧しくなり、盗みに遭います。

 身を清く保ち、邪淫をなさないならば快い容姿を持ち、結婚生活・友人関係はうまくいきます。しかし反対に、邪淫を行なうならば醜(みにく)くなり、結婚生活はうまくいかず、夫または妻に裏切られます。

 真実を語り、嘘をつかないことによって、他の人はあなたの言うことを信じます。しかし、いつも嘘をつくなら、だれもあなたの言うことを信じないでしょう。

 仲たがいさせるような言葉を避け、人を仲良くさせるなら、いつも友人と親しく付き合うことができるでしょう。反対に仲たがいさせるなら、敵をつくり、妬(ねた)まれ、友人関係は貧しいものになるでしょう。

 快い言葉を話し、悪口を言わないなら、他の人もあなたに優しい言葉を話してくれるでしょう。しかし、常に他人の悪口を言うならば、自分も悪口を言われ、粗暴な言葉で話し掛けられます。

 意味のある言葉だけを語り、噂話をしないなら、自分も意味のある言葉を聞きます。一方無駄話をするならば、自分もたわいないことしか耳にしません。

 満ちたりることを知り、他人のものを欲しがらないなら、何にも不自由することはないでしょう。しかし、隣人のものを常に欲しがっているような人は、乞食になり、常に満たされることがなくなります。

 他に対して善き思いを持ち、悪しき思いを持たないならば、人々に親切にされ、尊敬されます。一方悪しき思いを持つことによって人に疑われ、害されることになります。

 正しい正確な見方をすることによって、知性・智慧は増し、頭はいつもさえています。しかし、誤った見方に執着するならば、心は狭くなり、 智性は働かず、疑いに満たされます。

 カルマの果は、本文にあったように様々に分かれます。

 別の分け方として、行為の動機となる誤った考えによって分ける方法があります。もし強いプライドと慢によって行動するなら、神として生まれ変わります。嫉妬から行動するなら阿修羅となり、欲望なら人間、心の狭さなら動物、物惜しみによって餓鬼、怒りによって地獄にそれぞれ生まれ変わります。

 ゆえに欲六界の転生から解放され、究極的な目的である解脱を達成するためには、誤った考えを取り除き、善行を行なうよう努力することが必要です。

 どういう善行であれ、それを増加・増大させるようにします。どのような悪行であれ、それを取り除き、止滅させるようにします。

 つまり、何を求め、何をなし、何から離れるかということを正確に把握し、悪業の流れを断ち切り、三つの門の善業の輪に途切れないようにするのです。これが仏陀の教えの意味であり、修行の目的です。ですから、これに従って行為をなすように努めます。

 よって、カルマ、因果の法則において何をなすべきで何をなさないべきなのかを詳しく理解したならば、そのように自分を訓練します。これがカルマの教え、因果の法則です。

3 サムサーラの不利な点

 このあとで、もしサムサーラ、輪廻の不利な点について瞑想することがなければ、衝動的にそれに引き付けられている状態から離れることはできないし、また、それを捨て去ろうという気持ちも起きてません。このような状況からは、心の流れの中に経験も洞察も生起しません。

 この生起が欠けているがゆえに、サムサーラから離れるためには、サムサーラの苦しみについて瞑想しなくてはならないのです。

 これに関連して、もし魂が地獄に生まれたなら、八つの熱地獄、八つの寒冷地獄、小地獄、特別な目的の地獄に表されているような、激しい苦痛を味わわなければなりません。餓鬼には飢えと渇きがあります。動物は、殺されたり屠殺(とさつ)されたりします。人間には生・老・病・死があります。神々は、いずれ高い世界から落ち、その意識が変化します。阿修羅にはケンカ・戦いが絶えません。これが、サムサーラの六つの世界の苦しみなのです。

 これに加えて、不幸・苦痛を味わう明白な苦があります。楽しみと見えるものは変化する苦を与えます。中立的なニュアンスを持つのは、すべて行き渡る苦です。この最後の苦に絶え間なくさいなまれているので、サムサーラのどこにいようと変わらないのです。たとえ宇宙を征する転輪聖王になろうとも、ブラフマン、インドラになろうとも、苦を乗り越えたことにはならないのです。

 それゆえに、サムサーラとは牢獄のようなものであり、底のない穴、燃え上がる巨大な炎であると確信し、今現在から常にできる限り、そこから解放される方法を求めなければなりません。

【解説】サムサーラとは“循環する”という意味で、果てしなく生・病・老・死・生・病等のサイクルを繰り返すことを意味しています。サムサーラを推進させ、永続させているのものは、無智と十二縁起と呼ばれる仕組みです。

 誕生には四つの方法があり、それぞれ子宮、卵、熱と湿気、奇跡的な変化による誕生です。これらの誕生によって、地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・神々の六つの世界のどこかへ生まれ変わります。最初の五つは欲界にあり、神々は三界、すなわち欲界・色界・無色界にまたがっています。

 しかし、どこの生まれようと苦からは逃れられないのです。

 それぞれの世界が、本文にあるように、それぞれ独特な不利な点を持っています。三つの一般的な苦、つまり苦痛、変化すべてに行き渡る苦の三つは、すべての世界に共通しています。

 最初の苦は、病・死等の明らかな苦痛です。

 変化の苦は、美味しい食物、田舎の散歩といった一見楽しいと思われるものが、胸焼けの原因となったり足のまめの原因になったりすることを示しています。

 すべてに行き渡る苦というのは、普通の人には不明確で、感じることのできない苦なのですが、空(くう)を認識している聖者は、これをはっきりと知覚することができます。これは、手のひらに乗せた毛は痛くないのに、それが目に入ると非常に痛いということに例えることができます。これは、汚れた蘊(うん)を持って生まれることに付いてまわる苦で、この蘊が、それ自体の性質として、磁石のように病・老・死を引き付けるのです。

 これらのサムサーラの不利点について瞑想することによって、サムサーラを離れる心、あるいは苦から完全に自由になりたいと願う心の状態を作り出すことが必要です。これがヒナヤーナ(小乗)を修行する動機となり、この動機と空の理解とによって解放がもたらされます。

 しかし、解放を妨げている障害だけではなく、全智を妨げている障害も克服するためには、もっと先に進む必要があります。

 離脱する心に加えて、菩薩としての動機を培う必要があります。すべてのサムサーラの生き物が苦を経験すること、そしてあなたと同じようにその束縛から自由になり、絶対的な幸福を願っているのだということを理解して、自分と他の生き物たちの両方を解放するために、仏陀になるよう努力しなくてはなりません。この動機によって、空の理解に特別な力が加わり、解脱がもたらされるのです。

 もし、このサムサーラを超えた状態であるヒナヤーナの解放を達成したとしても、絶対的な幸福を得たわけではありません。ゆえに、何としてでもこの無二の解脱に到達するよう努力をしなくてはなりません。

 そのためには、すべての生き物は一つの例外もなく、無始の過去から優しい自分の父・母であるという確信を持ち、「わたしは絶対に彼らを、比ぶるもののなない至福をもたらしてくれる完全な解脱へと導くんだ」と考え、正真正銘(しょうしんしょうめい)、菩薩としての動機を培うことが必要です。この方向に向けて努力することです。


4 貴重な人間としての生

 このような修行の土台となっているのは、貴重な人間の身体です。この人間の身体は、非常に得ることが難しいものです。ゆえに、無関心になったり、怠惰に流されたりすることなく、全身全霊を傾けて修行に打ち込まなければなりません。

 もしこの恵まれた身体が、死や無常によってさらわれてしまったら、手ぶらで行かなくてはなりません。もしそのようになってしまったらどうしますか?この貴重な人間の身体は得難く、簡単に失われてしまうものであるがゆえに、いかなるときでも、いかなる状況においても、目的を失うことなく、貴重な人間としての生を成就しなくてはならないのです。そのために努力すること、これが貴重な人間としての生の瞑想です。

【解説】法を学び、実践できる自由と機会に恵まれた人間としての身体を持つということは、非常に稀なことなのです。この人間としての身体という乗り物を上手に使うことによって、解脱を得ることができますが、注意していないと低い世界に落ちてしまうことになります。このような身体を得ることができたのは、功徳と洞察の集積があったからで、特に戒を守り、祈りを行なった結果によるものです。

 シャーンティデーヴァは、人間としての生を得る確率は、海底に住み、百年に一度だけ海上に頭を出すめくらの亀が頭を出したときに、ちょうど折りしも風に吹き飛ばされて流れてきた金のくびきに頭を入れる確率にも等しい、と述べています。

 この例えにおいて、亀は魂、めくらであるのは無智の象徴、海底は低い世界を示しています。また、海上に頭を出すのが転生、金のくびきが貴重な人間としての生、それが風に吹き飛ばされるというのはカルマの有為転変(ういてんぺん)を示しています。

数とう観点からも、人間としての生は貴重です。地獄の住人の数を砂漠の砂粒とするならば、餓鬼の数は空中の塵(ちり)の数、動物は夜空の星、そして、人間は昼間の星の数に例えられると言われています。

 一国に住む人間の数を調べるのは、何とかできるでしょう。しかし、同じ国に住む動物・昆虫・微生物の数を数えるのは不可能です。それを考えれば、人間としての生がいかに貴重か理解できるでしょう。さらに、世界の人々の中で親切な心を持った人の数はさらに少なく、法に従う自由、機会、指向性を持った者の数となると、これはもう存在しないにも等しいのです。

 ゆえに、人間としての生を受けたなら、それを無駄にしてはいけません。死はあまりにも早く訪れます。海に宝を探しに行って、手ぶらで帰るようであってはなりません。一時的な楽しみに心を奪われることなく、法を実践し、永遠に続く究極の幸福を手に入れてください。

5 成功の因となる条件
 
 修行を成功させるための四つの条件の一つ、成功となる条件の原因となる条件とは、無常ということについて考え、心をそれに慣らし、離れようとする心を培うことです。そしてさらに、自分および一般的事柄に関して、すべてのサムサーラの事象の不満足な性質を理解し、サムサーラに引き付けられる衝動から自分を切り離すことです。

【解説】視覚的知覚の因となる条件が、対象の地・水・火・風・空のエレメントであり、知覚のベースが目であるように、この一般的な準備修行も、瞑想修行のための土台の積み重ねなのです。

6 一番の条件

 自分自身を完全なグル、例えば派に属するグル、仏陀釈迦牟尼の言葉であるグル、究極の真実としてのグル、目に見える現われとしてのグル等に対して捧げ、帰依しなくてはなりません。なぜならばグルによって愛されることが成功のための第一条件だからです。よってこのように帰依します。

【解説】視覚的知覚の第一条件は、目の知覚する力です。同様に帰依の力によってすべての洞察をなすことができるのです。

7 客観的条件
 
 すべての宗派的感情、および偏見から自分を切り離さなくてはなりません。なぜなら、これらの宗派はすべて、帰属および精神的な分類によって成立したものであり、弟子を解脱に導くためのしきたりに過ぎないからです。すべての派は皆矛盾しておらず、どの派に従っても、すべての事象の不変の状態である、根源的真実に到達できるのだという確信を培うことが必要です。これは、瞑想の対象に欺かれないための客観的な条件であり、ゆえに確信を持つことが必要なのです。

【解説】インド、チベットで数えを説く宗派は、すべて仏陀釈迦牟尼から派生し、様々な性質を持つ弟子たちを巧みに究極の真実の認識へと導く、仏陀の教えの表現と言えます。これらの宗派は同じことを別の方法で説いているのですが、言葉であるがゆえに人々がそれを分類し、名前を付け、派として成立させたのです。どの派も矛盾していないのです。視覚的知覚の客観的条件が視覚物であるように、心の本質を理解するときに宗派にとらわれないことが、修行を成功させるための条件です。

8 直接条件

 瞑想に対して衝動的な執着を持たず、心から真剣な努力をなすことが大切であると同時に、瞑想するときどんな期待も心配もしてはなりません。

 それは例えば、「今瞑想すること、あるいは未来において瞑想すること、または過去において瞑想したことは価値があった。しかし、もし瞑想していなかったり、これからもしなかったなら、自分には何の価値もない」などと考えることです。

 期待や心配を持たないことは、成功のための直接条件です。よって、計算のない心の状態で修行しなくてはなりません。

【解説】視覚的知覚のための直接条件は、知覚の連続性をもたらす知覚前の意識です。上記の心の状態は、マハームドラーの瞑想において似たような機能を果たします。

 これで準備段階の修行は終わりです。



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