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第2章 少年時代


第2章  少年時代


 レーチュンパは尋ねた。

「師ミラレーパよ、父上が亡くなられてからのち、あなたは数多くの不幸な出来事に遭ったと聞いています。どのようないきさつでそのような不幸に見舞われたのですか。」

 このように彼が懇願すると、ミラレーパは続けた。


 わたしが7歳のとき、父である「智慧の旗のミラ」は、重病で憔悴(しょうすい)しきっていた。医者も魔術師も治る見込みがないと言って、父を見捨てた。

 親戚や父の友人たちも、長くはもたないと知っていた。父自身、自分の死を疑っていなかった。おじ(永遠の勝利の旗)とおば(キュンの輝ける競争者)と親戚一同、近場の友人と遠くの友人、主だった隣人が一堂に会した。

 父は、家族と仕事を受託者の管理に任せるということで合意した。そのあと父は、のちに息子が遺産の所有者となることを保障した詳細な遺言書を作成した。そして皆に聞こえるように、その遺言書を大きな声で読み上げた。

「簡単に言うと、わたしの今の病気は回復の見込みがなく、息子がまだ小さいので、これは、息子を親戚と友人一同、特におじおばに委ねる旨を記した取り決めである。

 山々には、わたしの動物、ヤクと馬と羊。谷には、まず田畑の『肥沃な三角地帯』、そして貧しい者がうらやむ他の何カ所かの土地。家屋の下には、雌牛、山羊、ロバ。上の階には、金、銀、銅、鉄、トルコ石、織物、絹、そして穀倉。このすべてがわたしの財を作り上げている。簡単に言えば、多くを所有しているので他人をうらやむ必要がない。この財宝の一部を取って、わたしの死に伴う出費に充てなさい。残りについては、すべて、息子が財産を管理できる年ごろになるまで、今ここに集まっている人たち全員に委ねる。息子を全面的におじおばの管理に委ねる。

 この子が家族の責任を負える年になったら、小さいころかのいいなずけであるゼーセと結婚させてほしい。そして二人にわたしの財産を例外なく受け取らせ、息子を遺産の所有者としてほしい。

 それまでの間、おじおばと近しい親戚の者は、二人の子供と母親の喜びと悲しみを気遣ってほしい。3人が不幸に陥ることがないように。死んだら、死者の国からあなたたちを見守っていよう。」

 こう言うと、父は息を引き取った。

 その後、葬儀が執り行われた。財産の残った分に関しては親戚の者全員が合意に達していた。皆が、特に他人の幸福を願っている者は、

「『白い宝石』よ、あなた自身が財産を管理してくださいなたが良かれと思うようにしてください」

と言った。ところが、おじとおばはこう言った。

「ここにいるのは皆あなたの友人です。しかし、わたしたちはあなたに近い者だから、友人よりはずっと良い者です。母や子供たちの害になることなど絶対にやりません。遺書に従って、わたしらが財産の管理をしましょう。」

 母の兄やゼーセの家族の主張には耳を貸さず、おじは品々の中から男物を、おばは女物を取った。残りは半分に分けられた。そしておじとおばは言った。

「今度はお前たち、母と子供がわたしたちに仕えるのだ。」

 もはやわたしたちには自分の財産を自由にする権限はなかった。夏、野良仕事の時期には、わたしたちはおじに仕えた。冬、羊毛の作業のときには、おばに仕えた。食べ物は犬の餌(えさ)と変わらず、仕事はロバ並みだった。服の代わりに、細長いぼろ布をいく枚か肩から下げて、それを草の紐(ひも)でつなぎ合わせていた。休む間もなく働き、手足の皮がすりむけて痛んだ。粗末な食べ物とみすぼらしい服装のために、やせ細って血色が悪くなった。一時はトルコ石や金色の色に巻いていた豊かな髪も、薄くなって白髪が混じり、シラミやシラミの卵がいっぱいわいた。

 心ある人たちは、この有り様を見聞きして涙した。彼らはおじやおばの陰では無遠慮に話した。わたしたちは不幸に負わされ苦しめられ、母はおばに言った。

「あんたは『キュンの輝ける競争者』なんかじゃない。『ドゥーモ・タクデン、虎と同じ鬼女』だ。」

 この「虎と同じ鬼女」という名はおばに定着した。

 当時、有名なことわざがあった。

「偽りの主人が主人になるとき、真実の主人は犬のように家を追い立てられる。」

 このことわざはわたしたち親子を的確に表現していた。

 父、智慧の旗のミラが生きていた時代は、強い者も弱い者も、だれもがわたしたちの顔をのぞいて微笑んでいるだろうか、悲しんでいるだろうかと心に留めていたものだった。後におじとおばが王様に負けないほど豊かになったとき、人々が敬意を払ったのは、微笑んでいるにしろ悲しんでいるにしろ、おじとおばの顔だった。男たちは母のことを噂した。

「『豊かな夫には有能な妻が寄り添う。しなやかな羊毛から上質の布がとれるが如(ごと)く』というこのことわざは実に当を得ている。もはや夫のない今、ことわざの語るとおりだ。昔、『白い宝石』の夫がご主人様で、威厳を保っていた時分は、彼女は料理上手なだけでなく、賢くて勇ましかった。今の彼女は弱々しくおびえている。」

 以前仕えていた者たちでさえ、わたしたちをあざけった。このように人々は、

「ある者の不幸は他の者の喜び」ということわざどおりに振舞った。

 ゼーセの両親はわたしに長靴と新しい服をくれて、こう言った。

「財が消え失せたからといって自分たちのことを貧乏だと思ってはいけません。そういうものは草原の露みたいにいっときだけのものです。あなたたちの祖先も、ごく最近になるまで、豊かではありませんでした。裕福になる機会がきっとまた巡ってきます。」

 そう話して、わたしたちを慰めてくれた。


 ようやくわたしは15歳に達した。このころには、嫁入り道具として母が両親から譲り受けていた田畑があった。デペ・テンチュン(小さなも毛皮の絨毯(じゅうたん))とうあまり美しくない地名で呼ばれていたが、それでも収穫は抜きん出ていた。母の兄が自らその地を耕し、収穫物を蓄えるために、できる限りのことをした。

 こうして彼はひそかに収穫物の余剰分を寄せ集め、それを売って大量の肉を買った。白大麦は粉にした。黒大麦はビールにして宴に備えた。宴は、「白い宝石」と子供たちの遺産を改善するためのものだ、と彼は言った。そして母は絨毯(じゅうたん)を借りてきて、「四本の柱と八本の梁(はり)」と呼んでいる我が家に敷き詰めた。

 母はまず、おじとおばを招き、次に近い親戚、親しい友人、隣人を、最後に父、智慧の旗ミラの記した遺書のことを知っている者たちを招いた。おじおばに対して、母は動物を丸々一頭差し出した。他の者にはそれぞれの地位に応じて、一頭の4分の1、あるいは4分の1のそのまた3分の1を差し出した。磁器の椀(わん)でビールを供した。

 「息子が生まれれば名前をつけるものです。ビールの宴に呼ばれたならば、それは話をすべき時だという意味です。ここにお集まりの方たちすべてに、おじおばにも、智慧の旗のミラが臨終のときに言い残した言葉を覚えていらっしゃる年輩の方々にも申し上げたいことがあります。」

 そう母は話した。そして母の兄が遺書を読み上げた。続けて母が言った。

「ここにいらっしゃる年輩の方たちには、この遺書の項目について説明するまでもありません。これまでは、おじとおばが、わたしたち親子をわざわざ指導してくださいました。今や、この息子とゼーセは二人家庭を持つに十分な年齢になりました。このためお願いするのです。あなたに委ねられていた財産をわたしたちに返してください。遺書に従って、息子とゼーセを結婚させて、息子に遺産を管理させてください。」

 このように母は話した。ふたんは決して、同意しないおじとおばが、貪りの心から手を握った。わたしたちの側は、息子はわたし一人であった。おじとおばには息子が大勢いた。

 そうしておじとおばは声をそろえてやり返した。

「お前たちの財産だって?どこにあるんだ?昔、智慧の旗のミラが元気だったころ、わたしらは彼に家、田畑、金、トルコ石、ゾ(*1)、馬、ヤク、羊を貸した。彼はその財産を、死に際に持ち主に返してきたのだ。お前たちは金の一かけらでも持っているというのか?バターの1オンスでも持っているというのか?服の一枚だって持っていやしない。絹の端切れ1枚だってあるものか。動物のひづめだって見たこともないぞ。この遺書はだれが書いたんだ。わたしらは、お前たちが身寄りがなくなって貧しくて困っていたとき、養ってやるだけの親切心があったんだ。だからお前たちは飢え死にしなくて済んだだぞ。『権力を有するや否や、貪欲な者は水でさえも量る』ということわざはまさにその通りだ。」

(*1)ゾ:ヤクと普通の牛の交配種

 こう言ってから、おじは鼻汁をすすりあげて鼻をかみ、素早く立ち上がった。指をならし、スカートの飾り布を揺すって両足を踏みつけた。

「それから、この家だってわたしの所有物だ。さあ、身寄りのない者たち、出ていけ。」

 そう言うなり、おじは母を平手でたたき、チュパ(*2)の袖(そで)妹とわたしを打った。

(*2)チュパ:チベット人の着るチュパの袖は、おりかえすしたとき肘(ひじ)のところから垂れて、手の先よりも長さがあるので、鞭(むち)としての役も果たす。


 母は大声で叫んだ。

「父である智慧の旗のミラよ、あなたの家族の運命をご覧ください。あなたは、死者の国からわたしたちを見守っていようとおっしゃいました。今、しっかりと見てください。」

 そう言うと、涙を流し、地面に崩れ、のた打ち回った。わたしたち子供にはなす統べもなく、ただ泣くだけだった。母の兄は、おじの大勢の息子を恐れ、やり返すことができなかった。わたしたちを快く思ってくれている村人たちは、気の毒に思っていると言ってくれ、涙を流さない者は一人もいなかった。そこにいた他の者たちは、深いため息をついた。

 おじとおばがわたしに向かって言った。

「お前たちは財産を要求したが、とうにたくさん持っている。隣人や村人たちのために宴を用意して、浪費したビールや肉のことはお構いなしだ。わたしらにはそんな富はない。たとえ宴を用意したとしても、お前たち、みすばらしい身寄りのない者には、肉やビールはやらんさ。だからもし、そっちの頭数が多いなら戦争を仕掛けてこい。頭数が少ないなら魔法をかけてみろ。」

 そう言い放つと、彼らは出ていった。あとから彼らの友人たちも去っていった。

 母は泣きやまなかった。母の兄や、ゼーセの両親、わたしたちの友人が母を慰めてくれた。

「泣いてはいけません。涙は何んの役に立ちません。宴に来た者それぞれに何か頼んだらいい。ここにいる者は皆、あなたたちの入り用のものをくれますよ。おじさんやおばさんだって、良いものをくれるかもしれませんよ。」

 そのとき、母の兄が言った。

「彼らの言ったとおりにしよう。お前の息子に術を習いに行かせるんだ。母と娘は、わたしのところで暮して、わたしの田畑で働けばいい。有益な事に専念するのは、どんなときにも良いことだ。とにかく、おじとおばの目の前で手も足も出ない状態にならないように、何か手段を講じなければならない。」

 母が答えた。

「財産をすべて取り上げられても、子供たちを育てるのに何一つ欲しいと言ったことはなかった。わたし自身の財産のほんの一かけらだって、おじやおばからは受け取ったりはすまい。おじおばに酷使され、わたしたちは太鼓の音が鳴ったら走り、煙が立ちのぼったら走らなければならない。(*3)彼らに恥ずかしい思いをさせてやりましょう。その後、自分で自分の田畑を耕します。」

(*3)わたしたちは太鼓の音が鳴ったら走り、煙が立ちのぼったら走らなければならない。:この表現は、貧乏人や乞食が施し物を求めて、特に、太鼓の音などの音楽を鳴らして宗教的儀式を行っている最中の家や、台所の煙突から煙が立ち昇っている家を捜し歩く状況に言及している。そのような場合、後援者たちは調理した食べ物を分配する。

 ツァ地方のミトゥーゲーカという村に、ニンマ派に属する魔術の師匠がいた。八神のナーガの祭儀(*4)を心得ており、村々で非常に重宝がられていた。母はわたしに、読み方を習わせにその師匠のもとへ行かせた。親戚の者たちが自らの財産を差し出し、わたしたち一人一人に何がしかのものをくれた。ゼーセの両親は補給用にと油と薪(まき)を持ってきてくれ、さらにはわたしを力づけるために、読みを習っている所にまでゼーセを来させてくれた。母方の兄が母と妹を養い、こうして二人は、物乞いすることも、どこか他の場所で働く必要もなかった。

(*4)八神のナーガの祭儀:八神の「蛇の神々」としての「八神のナーガ」。

 母の兄は、母が貧困に陥ることのないように気を配り、母は家の中で、今日は糸紡ぎ、明日は機織り、という具合に働いた。このようにして、母はいくらかのお金と、わたしたち子供のために必要なものを手に入れた。妹は食べ物と衣服を稼ぐために、別の所で、できるだけたくだん働いた。そして、太鼓の音が鳴ったら走り、煙がたちのぼったら走った。

 空腹に苦しめられ、服はぼろぼろ、意気消沈し、わたしたちは幸せではなかった。

 このようにミラレーパは語った。彼が語るにつれて、聴いていた者たちはみな非常に心を動かされ、悲しく感じて涙を流し、少しのあいだ口を開く者はなかった。これが、悲惨な現実を最大限まで赤裸々にした、第2章である。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


                         《注》

(*1)ゾ:ヤクと普通の牛の交配種

(*2)チュパ:チベット人の着るチュパの袖は、おりかえすしたとき肘(ひじ)のところから垂れて、手の先よりも長さがあるので、鞭(むち)としての役も果たす。

(*3)わたしたちは太鼓の音が鳴ったら走り、煙が立ちのぼったら走らなければならない。:この表現は、貧乏人や乞食が施し物を求めて、特に、太鼓の音などの音楽を鳴らして宗教的儀式を行っている最中の家や、台所の煙突から煙が立ち昇っている家を捜し歩く状況に言及している。そのような場合、後援者たちは調理した食べ物を分配する。

(*4)八神のナーガの祭儀:八神の「蛇の神々」としての「八神のナーガ」。


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[ 2011/11/29 00:38 ] 第2章 少年時代 | TB(0) | CM(2)

第1章 誕生


    ミラレーパの生涯   第 1部

 あらまし:父方の名前:ミラに関して。祖先の起源。誕生の様子。

  父が亡くなった後、どのように近しい親戚が敵となり、彼の所有していた内側、外側の物を奪い、彼がどのように苦しみみという真実を知るかについて。

  最後に、母に説得されることによって、魔術を使って敵を滅ぼす様子。これがこの驚くべき話の最初の3章である。


 第1章  誕生

 
  エマホ、何と驚くべきこと!ニャナンのドゥーパ・プク(胃袋のような洞穴)と呼べれる洞窟に住んでいるとき、すべてのヨーギーのの中の最高のへールカ、そ の名も高き師、ミラ・シェーパドルジェ(笑うヴァジラ)は、優れた弟子、信者、覚醒したヨーギー、偉大な到達真智運命魂たちに囲まれていた。その名を挙げ れば、レーチュン・ドルジェタクパ(有名なヴァジラ)、レーパ・シワウー(寂静の光)、ゲンゾン・レーパ、セベン・レーパ、キラ・レーパ(狩人)、ディゴ ン・レーパ、レンゴン・レーパ、レーパ・サンギェーキャプ(覚者である守護者)、シェンゴン・レーパ(シェンの隠者)、タンパ・ギャクプワ(ギャクプの聖 者)、シャーキャグナ師、その他である。女性の信者たちの中には、レクセブム(十万の徳)とジェンドルモ(シェンのヴァジラ)が他の在家の弟子と共に来て いた。また、会衆の中には五人のツェリンチェー(長寿の姉妹)や微細な身体を得た他のダーキニーたちもいた。そしてその他にも、神々や男女がそこに集まっ ていた。師はマハーヤーナの教えに従って、聖なる法輪を回しておられた。

 そのとき、レーチュンパは洞窟で深い瞑想に入っていた。一晩中 彼は夢を見ていた。ウッディヤーナ(ダーキニーたちの住処)と呼ばれる魅惑的な国で、彼は高価な材料で家々が建てられ瓦(かわら)が吹かれている素晴らし い都市に入った。この都市の住人は、魅惑的な美しさを持ち、絹の衣装を着け、骨と貴石の飾りをつけていた。彼らは口をきかず、ただ喜びに満ちて微笑み、視 線を交わし合っていた。

 その中に、バリマという名の、ラマ・ティプパの女性の弟子がいた。レーチュンパは彼女を以前のネパールで知っていた。彼女は赤い衣装をつけており、彼らのリーダーのようであった。

「甥(おい)よ、来たのですね!ようこそ。」

 彼女はレーチュンパにこう言うと、高価な石でできた、感覚を喜ばせる無数の宝が満ちあふれている大邸宅に連れて行った。そして、大事な客として迎え、彼のために素晴らしい祝宴を開いて、食べ物と飲物でもてなした。

 彼女はこう言った。

「今このとき、不変の覚者アクショブヤがウッディヤーナで教義を教えておられます。甥よ、もし覚者の話を聞きたいなら、わたしがお許しを頂きましょう。」

 レーチュンパは覚者の法則を聞きたいと望んで、

「ええ、お願いします」

と答え、彼らに連れだって出かけた。

 市の中心で、レーチュンパは高価な材料でできた、素晴らしい高い玉座を見た。その玉座には不変の覚者が、まばゆく輝きながら、瞑想で見たよりも壮厳に座し、おびただしい数の弟子のただ中で、教義を教えておられた。

 レーチュンパはこのしるしを見て喜びに酔いしれ、気の失うのではないかと思った。バリマが言った。

「甥よ、しばらくここにいてください。わたしは覚者のお許しを得てきます。」

 彼女は前に進み出て、望みを果たした。レーチュンパは彼女に導かれて覚者の足に礼拝した。そして覚者に祝福を請い、その前にとどまって教えを聞いた。

 覚者は少しの間、彼に向かって微笑みながら、じっとご覧になったので、彼はひそかに思った。

「覚者は聖哀れみを持って、わたしのことを考えておられる。」

 レーチュンパは覚者方と到達真智運命魂方の誕生と生涯の歴史をきくうちに、身の毛が震えるほどの感動を覚え、信を持った。

 最後に覚者は、それまでの話よりさらに驚くべき、ティローパ、ナーローパ、マルパ(*1)の物語をお話になった。聞いていた者たちには信が高まるのを感じた。

(*1) ティローパ、ナローパ、マルパ:カギュー派の主要な二つの系統は、リンギュー、顕教の伝統における師の「遠い系統」と、ニュギュー、師の「近い系統」(あ るいは直接の系統)である。この後者の系統はティローパから来たもので、ティローパは来たもので、ティローパは奥義に関する密教の口頭伝授、特に後にナー ローパの六つの教義として知られることになる伝授を受けた。


 話を終えられると覚者はこう言われた。

「明日はミラレーパの話をしましょう。今話したものより、さらに素晴らしい話です。皆さん、聞きに来てください。」

「今聞いたものよりもさらに素晴らしい業があるなら、その奇跡は、すべての限界を超えている」

と、何人かの弟子が言い、また他の者は、

「今明かされた徳は、教え切れない生の間に幻影と欲望を取り除くことによって積まれた、精神的、霊的な徳の果報だ。だがミラレーパは一生、一つの身体で同じ完成に達したのだ」

と言った。そして初めの者たちが言った。

「もしそのような素晴らしい教えを、有情の魂のために懇願(こんがん)しなかったら、我々は価値のない弟子ということになってしまう。心から努力し勇気を持って、この教えをいただこうとしなければ。」

 また別の者が、

「ミラレーパは今どこにいるんだ?」

と聞き、だれかが、

「彼はアビラティか超越童子天(*2)のとぢらかの覚者の領域にいる」
と答えた。レーチュンパは思った。

(*2) アビラティと超越童子天:覚者の浄土の名前。アビラティは「完全な喜び」という意味で、覚者アクショーブヤ(ふどうの者)の領域である。イニシェーション を受けた者が、瞑想で五つの覚者の領域を観想するとき、アビラティは東にあるものとして考えられる。「超越童子天(オクミン)」という言葉は、文字どおり には、「下にないこと」という意味で、つまりサンボガカーヤの最高の覚者の領域を指している。「超越童子天(オクミン)はまた形容詞として名詞「アビラ ティ(グンガー)」を修飾して、「オクミン・グンガー」、最高の喜びに満ちた領域、というふうに描写的な言葉ともなる。


「師は実際にはチベットに住んでいらっしゃる。今の発言は皆、わたしの情熱を目覚めさせるためのもの以外の何ものでもなかったのだ。わたしは間違いなく、すべての魂の利益のために、師の物語を懇願しなければならない。」

 レーチュンパがこのように考えていると、バリマが彼の手を取り、揺り動かして言った。

「甥よ、わかったのですね!」

 夜が明け始め、レーチュンパは目を覚ました。彼の内的な知覚は、かつてなく透明で明るく、瞑想は堅固であった。夢を思い起こしながら、彼は考え続けた。

「不 変の覚者がウッディヤーナのダーキニーたちに教えを説いておられると聞いた。本当に素晴らしいことだ。しかし尊敬すべき師ミラに会えたことは、それよりさ らに素晴らしい。不変の覚者の教えを聞いたのは、尊敬すべき師の祝福である。ジェツン(*)はアビラティか超越童子天に住んでおられると言われていた。」

(*)ジェツン:宗教的指導者、聖者、および偉大な教師に与えられるチベット語の尊称・敬称。

 レーチュンパは、自分を叱咤(しった)した。

「ジェツンがチベットに住んでおられると考えるとは、なんと愚かなことか。それは自分をジェツンのレベルに置くことであり、ジェツンに対する不敬であった。尊師は身・口・ 意において覚者であられるのだから、ジェツンがなされることは想像できないほど偉大で深遠なのだ。愚かなわたしは、ジェツンがどこにいらっしゃろうと、その場所は いつでも超越童子天とアビラティだということを忘れていたのだ。夢の中で教義を教えておられた方と、その教えを聞いていたバリマその他の人たちは、わたし がジェツンにお話を伺わなければならない、ということを示唆していたのだ。よし、ジェツンにお伺いしよう。」

 彼は師ミラレーパに尋常ならざる尊 敬の念を感じ、心の底から、まさに骨の髄から祈りを捧げた。少しの間瞑想に浸っていると、無感覚と明るい透明さが入り交じった中に、五人の若い娘が、それ ぞれ白、青、黄、赤、緑のウッディヤーナの帯状の髪飾りと衣装をつけて、彼の前に立っているのが見えた。

「明日ミラレーパの話があるわよ。聞きに行きましょう。」

と、そのうちの一人が言った。

2番目の娘が、

「だれがそれをお願いするの?」

「優れた霊の息子たちがお願いするでしょう」
と言うと、

と、別の娘が答えた。そして彼らの目がレーチュンパに向かって微笑んだ。

「あのような素晴らしい教えを聞けば、だれもが幸せになるでしょうから、わたしたち一人一人がそれぞれお祈りをしてお願いするのがよいと思うわ」

と、その若い娘がつけ加えると、別の一人がこう続けた。

「お話をお伺いするのは、年長のお弟子さん方がお決めになることよ。わたしたちの仕事は教えを広め、守ること。」

 こう言い終えると、娘たちは虹のように消えた。

 レーチュンパは夢うつつの状態から覚めた。夜明けの太陽が昇り、空にまばゆく輝いた。

「この夢は不死の五姉妹の導きだったのだ」
と、彼は心の中で思った。

  彼は覚醒した活発な状態で、食事を用意した。そして食事を終え、満ち足りて元気になると、師を探しに出かけ、色とりどりの群れをなす、出家修行者や弟子や 在家修行者に取り囲まれている師を見つけた。レーチュンパは師に礼拝し、ご機嫌を伺った。そしてひざまずいたままで合掌(がっしょう)し、懇願(こんがん) した。

「尊きジェツン「よ、いにしえの覚者方は昔、有情の魂のために、覚者方の生涯の12の苦労や、その他の想像もつかない開放の業をお話になりまし た。そしてこのようにして覚者の教えが世界中に広まりました。今日、幸運な求道者には、解放への道が開かれております。それは、ティローパ、ナーローパ、 マルパその他の聖者方が、ご自分の経験を語られたからです。
 
 ジェツンよ、弟子の喜びのため、将来弟子になる幸運な者たちのため、そして他の有情の魂を解放の道において導くため、哀れみ深きジェツンよ、家族の源である方よ、どうかジェツンのお話と、ジェツンのなされた業をお話しください。」

 そこでジェツンは微笑んでお答えになった。

「レー チュンパ、お前の頼みであれば、願いをかなえよう。わたしの一族の名前はキュンポ、家族の名前はジョセー、そしてわたしの名前はミラレーパである。若いこ ろ、わたしは極悪な行いをなした。成年になってからは純潔を実践した。そして今、わたしは善悪の両方を離れ、カルマをつくる行為の根を破壊し、これから行 為を起こすいかなる理由もない。これ以上話しても涙と笑いを誘うだけだ。お前に話して何の益があろうか?わたしは老人だ。そっとしておいてくれないか。」

 ミラレーパはこのよう言った。レーチュンパは礼拝して、今度はこのように懇願した。

「尊ききジェツンよ、ジェツンを初め、恐ろしいまでの苦行と決意によって、隠された真理を見抜かれました。完全に瞑想に没頭することによって、物事の真の性質と空の状態 への覚醒を成し遂げられました。カルマのきずなを解き放ち、未来際の苦を越えられました。わたしたちは皆、それを知っております。それゆえ、ジェツンがキュン ポの子孫、ジョセーの家系であること、ミラと呼ばれた理由、そしてなぜ、ジェツンの最初の悪業と、成年に達して行われた善業が涙と笑いを誘うか、尽きることの ない興味があるのです。すべての魂のことを慈悲を持ってお考えになり、聖無頓着の深みにおとどまりにならず、どうぞ体験なさったすべてのことを我々にお聞 かせください。信を持ってここにお集まりになった、道の兄弟姉妹よ、在家の弟子衆よ、一緒にお祈りください。」

 このように言うと、レーチュンパは何度か礼拝をした。そして高弟たち、精神的な息子たち、在家修行者たちも礼拝しながら彼と同じ祈りを唱え、ジェツンに法輪を回してくださいと懇願した。

 そこでジェツンはこのようにお話になった。

「そ のように熱心に懇願するなら、わたしももはや生涯を隠さず、それをあなた方に明かそう。わたしの一族は北部中央の優れた牧夫の系統からきており、その名を キュンポという。祖先はニンマ派(*3)のラマの息子で、ジョセーとうい名のヨーギーであった。タントラに主神に励まされ、マントラ(*4)によって素晴 らしい力を獲得し、また国中の聖地や、そこにある礼拝堂を訪ねて回った。

(*3)ニンマ派:「古い宗派」。インドからチベットに来た、グル・パドマサンバヴァとヴィマミトラのもとで8世紀に始まった、古い翻訳の宗派としても知られている。チベットの外で今日も存在しているチベット仏教の主要な四つの宗派の一つである。

(*4) マントラ:一つのマントラは、神聖と見なされる単独の音節、あるいはいくつかの音節がまとまったものである。仏教タントラの瞑想では、輝く形に観想される か、さまざまな声のレベルで歌われる。しかしときとして、マントラの音が動的な呼吸のエネルギーと合一して、無声の変質のかたちを取ることもある。


  タントラの経典は、マントラは人が偽慢的な心の二元的な表象と、それから生じるすべての不幸な結果から自分自身を守るために使うことのできる、直接的な方 法であると定義している。さまざまなマントラ瞑想によって心が静まり、それによってイニシェーションを受けた者はイニシェーションのときに垣間見た、自然 に生じる内的な覚醒に再び火をつけるために、努力することができるようになる。

 仏教のマントラは、元来、自己変容の原理と実践とともに、解脱した偉大なる師より授けられたものである。マントラにはさまざまなレベルの意味があり、これは経験のある師からのみ、またその師の決めた手順に従うことによってのみ、学ぶことができる。

 ヒンドゥー教の伝統は、基本的なマントラ「オーム」を最高の神の声であり、それに実在の力を付した。一方、仏教ではそのような絶対的な実在の力を認めない。


 北の上ツァンにある、チュンパチの村で、彼は歓迎され、この地方で悪霊を鎮圧した。この力のせいで、彼は大変重宝がられ、その影響力と仕事の重要性が増した。彼はキュンポ・ジョセーと呼ばれ、この地方で何年か住んだ。病にかかった者は必ず彼を呼んだ。

  あるとき恐ろしい悪霊がいた。この悪霊は、ジョセーに近づくことができなかったが、彼以外の者はだれも、それに耐えることができなかった。悪霊はジョセー をほとんど信じていないある家族に取りついて、彼らを苦しめた。この家族は別のラマを呼んで、悪魔祓(はら)いをやったが、悪霊はただ笑い、あざけって彼 らを苦しめ続けた。
 
 このとき、ジョセーを信じていた一人の親戚が、この家族にひそかにジョセーを呼ぶように勤めた。彼が「傷を癒(いや)すなら、人は犬の脂肪でも使う」ということわざを引用すると、彼らはキュンポ・ジョセーを呼びにやった。

 悪霊のそばに来ると、ジョセーは堂々とした態度で、声高に叫んだ。

「われ、キュンポ・ジョセーここに参上。悪霊の肉を食べ、その血を飲む者なり。見よ!」

 そう言い放つと彼は前に突進した。悪霊はパニックに陥って、恐怖のあまり叫んだ。

「パパ、ミラ、パパ、ミラ!」(*5)

(*5)「パパ・ミラ!」:「父よ、なんという人だ!父よ、なんという人だ!」チベット語で「ミ」とは人であり、「ラ」はそれを強める感嘆詞である。したがって、父(パパ)よ、なんという人だ、というふうに訳される。


 ジョセーが彼に近づくと、悪霊は言った。

「わたしはいつでもあなたのお邪魔にならないよにしてきたではありませんか。命だけはお助けください。」

 ジョセーは、悪霊にもう決してだれも傷つけないことを誓わせて、彼を行かせた。


 このときから、ジョセーの徳の力を表わして、だれもが彼をミラを呼んだ。そして、ジョセーはミラという名を姓としたのであった。悪霊はそれ以来害を与えることがなかったので、だれもが彼を別の領域に生まれ変わったのだと考えた。

  その後、キュンポ・ジョセーは女をめとり、一人の息子をもうけた。この息子は二人の息子を持ち、上の息子はミラ・ドトゥンセンゲ(獅子のようなスートラの 師)と呼ばれた。下の方の息子はミラ・ドルジェセンゲ(ヴァジラの獅子)と呼ばれた。このときから、子孫は皆はそれぞれ一人息子しか持たなかったのであ る。

 ヴァジラの獅子のミラは、非常に巧みな、サイコロのばくち打ちで、よく勝つことができた。さて、この地方には勢力のある家の出で、 やはりサイコロに巧みな詐欺師の男がいた。ある日、彼はヴァジラの獅子にミラの力を試すために、小さなゲームを行って、敵の力を計り始めた。この日、彼は 勝つために必要なことをやってのけた。機嫌を損ねたヴァジラの獅子のミラは、

「明日は取り返すぞ」と、彼に言った。

「いいだろう」と、もう一方が言った。

 詐欺師は賭(かけ)金を調達し、3回負かされた。

「今度は取り返すぞ」

と、彼は言った。両者とも賭けるものに同意した。今度は取り戻すことのできない、畑、家屋、全財産を賭けたのである。双方は書面で契約を交わして互いを拘束した。詐欺師が勝ち、彼は自分の家族に、賭けられた畑と家屋と全財産を管理させて、それらを所有した。

  父と息子の二人のミラはその地を去った。そしてマンユル近くのクンタンにある、キャガツァ村に着き、そこに身を落ち着けた。父、獅子のようなスートラの師 のミラは、聖典を読み、供犠(くぎ)の人形(*6)を捧げ、雹(ひょう)の嵐から守り、子供たちを悪霊から救うために、そこに住む人々の家に呼ばれた。需 要は多く、多くの布施された品がたまった。冬になると、ヴァジラの獅子はネパールの南に商売に出かけ、夏には北の牧夫の一人となった。また、ちょっとした 商売をしに、マンユルとクンタンの間を行き来することもあった。このようにして父と息子は大いなる富を築いた。

(*6)供犠の人 形:供犠の人形を使うことは、ボンと呼ばれる、自然崇拝の形態を取るチベットの土着の宗教の、伝統的な慣習にさかのぼる。木の塊や色のついたバターでつや 出しされたやわらかい練り粉で作られた男と女や家畜の人形が、犠牲者をその邪悪な影響から安全に解放するための賠償金として、神々や精霊に捧げられた。儀 式は家で、在家の心霊術者、あるいは、ときとしては仏教タントラの僧によっても行われる。

 このころ、ヴァジラの獅子のミラは村 の娘に恋をして、彼女をめとった。彼らは智慧の旗のミラと名づけた息子を持った。この息子が成人になりかけるころ、彼の祖父である獅子のようなスートラの 師のミラが死んだ。葬式を済ませた後、ヴァジラの獅子のミラは、商売によってさらに富を増し、以前よりもさらに裕福になった。

 ツァ(*7)の近くには、肥沃(ひよく)な土でできた三角形の畑を持つ、オルマという名の者がいた。北から南から、金と商品を手に入れた後、ヴァジラの獅子のミラはこの畑を買い取り、それを肥沃な三角形と名づけた。

(*7)ツァ:キャガツァの短縮形

 この畑の端に、近所の人のものである。廃墟となった家屋があった。ヴァジラの獅子のミラはそれも買い取り、荘園の邸宅の土台を造った。家が建てられているうちに、智慧の旗のミラは20歳になった。

  ツァの、ニャンの高貴な家族に白宝という名の大変美しい娘がいた。彼女は家事がうまく、友人に対する愛においても、敵に対する憎しみにおいても、激しかっ た。智慧の旗のミラは彼女をめとり、ニャンツァ・カルギェン(ニャンの白宝)と呼んだ。その後も荘園の邸宅の建設は進んだ。3階の片側に穀物貯蔵所と台所 のついた中庭が造られた。この家はギャガツァで最も美しいものとなった。邸宅は四つの柱と八つの梁(はり)がついていたので、四柱八梁と呼ばれた。良い名 前がついたことを喜びながら、父と息子はそこに住んだ。

 しばらく後、チュンパチで父と息子の名声を耳にした、ユンドゥン・ギェルツェン (卍(まんじ)の勝利の旗)という名の、ヴァジラの獅子のミラの第一のいとこの息子が、妻と子供たちと姉のキュンツァ・ペンデン(キュンの栄光ある競争 者)とともに、彼の故郷からキャガツァへやって来た。

 智慧の旗のミラは、南からたくさんの品々を持ち帰って、北の「虎の岬」にそれを売りに出かけて、しばらく留守にしていた。そのとき、白宝は子供を宿した。

 母がわたしを産んだのは、壬辰(みずのえたつ)(*8)の年の秋もたけなわ、月の25日目、第8星座の「勝利」と呼ばれる星の下でのことであった。母は父に伝言を送った。手紙にはこう書かれていた。

(*8)壬辰(みずのえたつ)の年:西暦1052年。


「収穫の時、男の子を産みました。名前をつけ、名づけ日を祝うために、すぐにお帰りください。」

 使いの者は手紙を届けると、一部始終を父に話して聞かせた。

 父は喜びに満たされて叫んだ。

「素晴らしい!名前は決まりだ。うちの家系は一世代に一人以上の息子が出たことはなかった。わたしのもとに生まれて来た子を、『よい知らせ(トゥーパガ)』と呼ぼう。知らせは喜びを運んで来るのだから。さて、商売も済んだことだし、出発だ。」

 そして、彼は家路に向かった。これがわたしが『よい知らせ』という名前をつけられたいきさつである。この名前は喜ばしい名の日の祭で祝福された。

 わたしは愛され、やさしい声だけを聞いて育ち、幸せであった。

「『よい知らせ』とはうまい名前がつけられたものだ」
と誰もいった。

  4歳になった時、母は女の子を産み、その子はグンキー(幸福な守護者)と呼ばれた。彼女の愛称はペタであったので、彼女はペタ・ダンキー(幸福な守護者ペ タ)と呼ばれた。妹は黄金色、わたしはトルコ石の青緑色をした、絹のようにつややかな髪がわたしたちの肩にかかっていたのが思い出す。

  この地方ではわたしたちの言葉は尊敬を持って聞かれ、わたしたちはすでに力を持っていた。それゆえ地方の高貴な者たちは、わたしたちの協力者であり、農夫 はわたしたちに奉公していた。しかし、こういったすべての特権をもっていたにもかかわらず、村人たちはこっそり集まって、こう言ったものだった。

「このよそ者はこの地方に移住してきた者であるが、今や我々のうちのだれよりも栄え、豊かになった。荘園の邸宅と農具と男や女がつけている宝石は見物である。」

 望みをすべてかなえ、ヴァジラの獅子のミラは死んだ。葬式は盛大に執り行われた。

 このようにミラレーパは語った。これが彼の誕生の章、第1章である。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


                   《注》

(*1) ティローパ、ナローパ、マルパ:カギュー派の主要な二つの系統は、リンギュー、顕教の伝統における師の「遠い系統」と、ニュギュー、師の「近い系統」(あ るいは直接の系統)である。この後者の系統はティローパから来たもので、ティローパは来たもので、ティローパは奥義に関する密教の口頭伝授、特に後にナー ローパの六つの教義として知られることになる伝授を受けた。

(*2)アビラティと超越童子天:覚者の浄土の名前。アビラティは「完全な喜 び」という意味で、覚者アクショーブヤ(ふどうの者)の領域である。イニシェーションを受けた者が、瞑想で五つの覚者の領域を観想するとき、アビラティは 東にあるものとして考えられる。「超越童子天(オクミン)」という言葉は、文字どおりには、「下にないこと」という意味で、つまりサンボガカーヤの最高の 覚者の領域を指している。「超越童子天(オクミン)はまた形容詞として名詞「アビラティ(グンガー)」を修飾して、「オクミン・グンガー」、最高の喜びに 満ちた領域、というふうに描写的な言葉ともなる。

(*3)ニンマ派:「古い宗派」。インドからチベットに来た、グル・パドマサンバヴァとヴィマミトラのもとで8世紀に始まった、古い翻訳の宗派としても知られている。チベットの外で今日も存在しているチベット仏教の主要な四つの宗派の一つである。

(*4) マントラ:一つのマントラは、神聖と見なされる単独の音節、あるいはいくつかの音節がまとまったものである。仏教タントラの瞑想では、輝く形に観想される か、さまざまな声のレベルで歌われる。しかしときとして、マントラの音が動的な呼吸のエネルギーと合一して、無声の変質のかたちを取ることもある。

  タントラの経典は、マントラは人が偽慢的な心の二元的な表象と、それから生じるすべての不幸な結果から自分自身を守るために使うことのできる、直接的な方 法であると定義している。さまざまなマントラ瞑想によって心が静まり、それによってイニシェーションを受けた者はイニシェーションのときに垣間見た、自然 に生じる内的な覚醒に再び火をつけるために、努力することができるようになる。

 仏教のマントラは、元来、自己変容の原理と実践とともに、解脱した偉大なる師より授けられたものである。マントラにはさまざまなレベルの意味があり、これは経験のある師からのみ、またその師の決めた手順に従うことによってのみ、学ぶことができる。

 ヒンドゥー教の伝統は、基本的なマントラ「オーム」を最高の神の声であり、それに実在の力を付した。一方、仏教ではそのような絶対的な実在の力を認めない。

(*5)「パパ・ミラ!」:「父よ、なんという人だ!父よ、なんという人だ!」チベット語で「ミ」とは人であり、「ラ」はそれを強める感嘆詞である。したがって、父(パパ)よ、なんという人だ、というふうに訳される。

(*6) 供犠の人形:供犠の人形を使うことは、ボンと呼ばれる、自然崇拝の形態を取るチベットの土着の宗教の、伝統的な慣習にさかのぼる。木の塊や色のついたバ ターでつや出しされたやわらかい練り粉で作られた男と女や家畜の人形が、犠牲者をその邪悪な影響から安全に解放するための賠償金として、神々や精霊に捧げ られた。儀式は家で、在家の心霊術者、あるいは、ときとしては仏教タントラの僧によっても行われる。

(*7)ツァ:キャガツァの短縮形

(*8)壬辰(みつのえたつ)の年:西暦1052年。


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[ 2011/11/29 00:27 ] 第1章 誕生 | TB(0) | CM(0)

はじめに

優れた工業製品を作る優秀さ、

優秀で頭がいいだけではなく、治安が安全なのは人徳の表れで

日本の歌などを聞いていると、繊細さや心の清らかさを感じます。

しかし、優秀で徳を備えた日本人ではありますが、宗教に関しては、

マスメディアや社会風潮により胡散臭(うさんくさ)いものだという多くの人が固定観念を抱いています。

本来、日本人は神性を有した民族なのですが、それが眠ったままになっています。

ミラレーパを読むことにより、本来の信仰の姿を教えてくれます。

グル(師匠)に帰依することの大切さ、輪廻転生、カルマの法則、慈悲を持つこと。

この汚れた時代にミラレーパを読み、わたしたちに本来備わっている信仰心を呼び覚ますことができるはずです。

きっと読み進めるうちに真理を確信することができるでしょう。


専門用語が多く難解ですが、辛抱強く読み進めることにより、信仰の素晴らしい世界観を堪能することができます。


一人でも多くの人が、信仰の素晴らしさに気づくことを願ってやみません。




『ミラレーパ』の生涯から


 他の者は、この不幸が理解できません。死の苦悩と下位の世界に付いて、考えなくい人々にとっては、人生の感覚的喜びだけで十分かもしれません。しかしわたしには、それらすべてが、衣食も世間の目も無視させて、瞑想へと駆り立てるのです。


 わたしは、人々が生きたまま火の中に入れられることを恐れるように、『生まれ変わり』の世界と低い世界の苦悩を深く恐れている。人々が快楽と八つの現世的反応に耽(ふけ)っていのを見るとき、詰め込んだ食べ物を吐き戻す人のように、わたしは嘔吐を感じる。我が父を殺した血染めの手を見るように、わたしは恐怖する。これがわたしの現世放棄の理由である。

 昼には、意のままに身体を変え、宙に浮き、奇跡を行えるとうい感覚を持った。夜には夢の中で、障害なく自由に、全宇宙を端から端まで探検した。そして、自分自身を何百というさまざまな物質的、精神的身体に変え、あらゆる覚者の世界を訪れてそこの教えを聞き、また多くの衆生にダルマを説いた。わたしの身体は、炎にも、わき出る水にもなれた。このような神秘的な奇跡の力を得たので、わたしは、喜び高揚した気持ちで瞑想した。




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[ 2011/11/29 00:18 ] はじめに | TB(0) | CM(0)

マハームドラーグルヨーガの手引書

無智の闇を取り除くマハームドラー

カギュー派

マハームドラーグルヨーガの手引書      準備段階の修行

1 死と無常

 もしあなたが無常について瞑想することがないなら、この世の関心事から心を離すことができないでしょう。そして心を離すことができないなら、サムサーラ、輪廻から解放されることはないでしょう。

 これに関してナーガルジュナは、その書『スーフリレクハ』の中で次のように述べています。

「我の命を害するものは数多くある。なぜなら命は風によって簡単に破裂してしまう水泡のようなものだからである。息を吐き出した後にまた呼吸し、眠った後また目が覚めるというのは大きな奇跡である」と。

 一般的に言って、すべての条件付けられた現象は無常であり、特に有情の生き物の生命力は、水泡のようにはかないものです。自分がいつ死ぬかだれにもわかりません。今死なないという保障はどこにもないのです。加えて、死のときにはダルマ以外助けとなるものは何もありません。

 もしこの世の意味のないこと、この世の活動のために努力するなら、苦の原因を超えることはできません。

 ゆえに、心が瞬時でも現世の食物、衣服等に向かうなら、死のことを考えようと心に誓わなくてはなりません。

【解説】すべての条件付きの現象、原因と環境に依存する現象は無常です。これには動くもの、動かないもの、有情の生き物、その環境、すべてが含まれます。今日確固としている建物も、明日は崩れて瓦礫(がれき)と化してしまうかもしれないのです。特に人間の生命力は非常にもろく、簡単に失われてしまうものです。だれもが自分が明日生きているとは保障できないし、その時がやってきたときには、友人も医者も薬もお金も名声も、死を止めることはできません。

 ただ一つ頼りになるもの法の実践だけです。もし生きている間に功徳をたくさん積んでいるなら、平安のうちに死ぬことができ、白いカルマの結果として幸運な転生が約束されています。

 ゆえに、感覚の喜びが永遠の幸せをもたらしてくれるという考えに惑わされてはなりません。

 もし、美しい景色にとらわれたなら、炎に引きつけられ死に至る蛾(が)のことを考えましょう。音に関しては、狩人の取り寄せの声に誘われてしまう鴨(かも)のことを考えましょう。

 蜜蜂(みつばち)はハエジゴクの臭いに引き寄せられ、ハエは糞(ふん)の臭いに引き寄せられてトイレで溺れて死んでしまいます。魚は釣り針の先に付いた虫が食べたいばかりに釣り上げられてしまいます。象は体をかきたいという欲求にとらわれて、飼い慣らされた仲間に導かれ、二本のトゲの付いた木の間に捕らえられて、つながれてしまいます。

 これらの例について考え、現世の喜びは新たな苦の原因にほかならないことを理解し、それから離れます。

 今にも死んでしまうかもしれないことを認識し、つまらないことに時間を無駄にしないようにします。食べ物、着る物を死刑囚が最後の食事を見るような気持ちで見つめましょう。

 今まで何人の友人や親族が亡くなったかを数え、彼らの死んだ様子を考え、その死体が焼き場に持っていかれ、ついには骨だけになってしまったことを考えます。そして、自分も同様のことを免れ得ないのだということを考えて、死刑執行人の手に引き渡された人が持つような恐怖の状態に、自分を持っていきます。

 心を散漫にして逃げてはいけません。この世に完全に興味がなくなったとき、完全にこの状態に心を没入させて瞑想します。これが死と無常の瞑想です。

【解説】これらの瞑想は、あなたの気を滅入らせるのが目的ではありません。もし瞑想の結果、悲観的になって苦しみ、「自分は死ぬ。そしてそれをどうすることもできない」と考えるなら、この瞑想は苦しみの原因となるだけです。

 死の瞑想の目的は、あなたに法の実践をさせ、カルマの法則を考えるようにし、未来の転生を左右するためには何をなしたらいいかを教えることにあるのです。戦いの場に入っていく勇者を鼓舞(こぶ)するように、あなたを鼓舞することが目的なのです。ミラレパは言っています。

「わたしは死を恐れて山に入った。しかし自らの心のダルマカーヤの本質を知った今、もう死が来ても怖くはない」と。

2 カルマの因果の法則

 この後、カルマ、因果の法則に照らして、何をなし、何をなしてはいけないかをはっきり知ることが必要となります。

どのような生き物であっても、自分のなしたことの果は必ず自分に返ります。

 さらに、十の悪業をなすならば、不運な転生と呼ばれる状況のもとに転生することになります。

 三つの毒のうちのどれかを使ってその要素がなされたか、どれくらいの頻度(ひんど)でなされたか、その対象はだれか、その程度は重いか、中位か、小さいかによって、地獄に生まれ変わるか、餓鬼に生まれ変わるか、動物に生まれ変わるかが決まります。

 もし、この三つのうちに生まれ変わるなら、計り知れない苦しみを味わなければなりません。

 反対になした善行の程度、大きな善行か中位の善行か、小さな善行かによって、無色界、色界、あるいは欲界の天界のうちのどこに生まれるかが決まります。

 ゆえに自分のなす行為を身・口・意の三つの門を通してチェックすることが大切となります。

【解説】因果の法則の基本は、幸福は善業、あるいは“白い”カルマの結果であり、苦しみは悪業“黒い”カルマの結果であるということです。

 さらに、その人のなしたことはその人にだけ返ります。つまり、もしあなたが人を殺すなら、その果はあなたの両親でも子供でもなく、あなた自身に返るということです。

 ゆえに、もし自分、そして他人を利することを望むなら、残酷な行いをやめ、親切な行ないをなすようにしなくてはなりません。

 十の悪業は、三つの身の悪業、四つの口の悪業、三つの心の悪業に分けられます。

 身の悪業とは、殺生、自分に与えられないものを取ること、すなわち盗み、姦通(かんつう)、強姦(ごうかん)といったような正しくない性行為を行なうことです。

 四つの口の業とは嘘、人を仲たがいさせる言葉を話すこと、悪口あるいは粗暴な言葉を話すこと、無駄話・噂話をすることです。

 心の悪業とは、他人に属するものをむやみに欲しいと思うこと、邪悪な思いを持つこと、そして、例えば因果の法を信じないといった誤った信念、考えをもつことです。

 並の十の善行とは、十の悪業をなさないことです。しかし、十の特別な善行とは、他の命を救うこと、寛大であること(布施をなすこと)、戒を守り、そして他にも同じようになすことを勧めること、誤解を生まないように真実を話すこと、ケンカの仲裁(ちゅうさい)をし、敵を仲直りさせること、優しく静かに話すこと、教えや祈りのように意味あることを話すこと、欲を持たず満足を知ること、他に対して善い思いを持ち、正しい宗教を信じ、その教えに確信を持つことです。

 もし他の命を救い、殺生を行なわないなら命は長くなります。反対に、繰り返して殺生をなすなら命は短くなり、病が続きます。

 人に施し、盗みをなさないならば豊かになります。しかし、盗みを行なうならば貧しくなり、盗みに遭います。

 身を清く保ち、邪淫をなさないならば快い容姿を持ち、結婚生活・友人関係はうまくいきます。しかし反対に、邪淫を行なうならば醜(みにく)くなり、結婚生活はうまくいかず、夫または妻に裏切られます。

 真実を語り、嘘をつかないことによって、他の人はあなたの言うことを信じます。しかし、いつも嘘をつくなら、だれもあなたの言うことを信じないでしょう。

 仲たがいさせるような言葉を避け、人を仲良くさせるなら、いつも友人と親しく付き合うことができるでしょう。反対に仲たがいさせるなら、敵をつくり、妬(ねた)まれ、友人関係は貧しいものになるでしょう。

 快い言葉を話し、悪口を言わないなら、他の人もあなたに優しい言葉を話してくれるでしょう。しかし、常に他人の悪口を言うならば、自分も悪口を言われ、粗暴な言葉で話し掛けられます。

 意味のある言葉だけを語り、噂話をしないなら、自分も意味のある言葉を聞きます。一方無駄話をするならば、自分もたわいないことしか耳にしません。

 満ちたりることを知り、他人のものを欲しがらないなら、何にも不自由することはないでしょう。しかし、隣人のものを常に欲しがっているような人は、乞食になり、常に満たされることがなくなります。

 他に対して善き思いを持ち、悪しき思いを持たないならば、人々に親切にされ、尊敬されます。一方悪しき思いを持つことによって人に疑われ、害されることになります。

 正しい正確な見方をすることによって、知性・智慧は増し、頭はいつもさえています。しかし、誤った見方に執着するならば、心は狭くなり、 智性は働かず、疑いに満たされます。

 カルマの果は、本文にあったように様々に分かれます。

 別の分け方として、行為の動機となる誤った考えによって分ける方法があります。もし強いプライドと慢によって行動するなら、神として生まれ変わります。嫉妬から行動するなら阿修羅となり、欲望なら人間、心の狭さなら動物、物惜しみによって餓鬼、怒りによって地獄にそれぞれ生まれ変わります。

 ゆえに欲六界の転生から解放され、究極的な目的である解脱を達成するためには、誤った考えを取り除き、善行を行なうよう努力することが必要です。

 どういう善行であれ、それを増加・増大させるようにします。どのような悪行であれ、それを取り除き、止滅させるようにします。

 つまり、何を求め、何をなし、何から離れるかということを正確に把握し、悪業の流れを断ち切り、三つの門の善業の輪に途切れないようにするのです。これが仏陀の教えの意味であり、修行の目的です。ですから、これに従って行為をなすように努めます。

 よって、カルマ、因果の法則において何をなすべきで何をなさないべきなのかを詳しく理解したならば、そのように自分を訓練します。これがカルマの教え、因果の法則です。

3 サムサーラの不利な点

 このあとで、もしサムサーラ、輪廻の不利な点について瞑想することがなければ、衝動的にそれに引き付けられている状態から離れることはできないし、また、それを捨て去ろうという気持ちも起きてません。このような状況からは、心の流れの中に経験も洞察も生起しません。

 この生起が欠けているがゆえに、サムサーラから離れるためには、サムサーラの苦しみについて瞑想しなくてはならないのです。

 これに関連して、もし魂が地獄に生まれたなら、八つの熱地獄、八つの寒冷地獄、小地獄、特別な目的の地獄に表されているような、激しい苦痛を味わわなければなりません。餓鬼には飢えと渇きがあります。動物は、殺されたり屠殺(とさつ)されたりします。人間には生・老・病・死があります。神々は、いずれ高い世界から落ち、その意識が変化します。阿修羅にはケンカ・戦いが絶えません。これが、サムサーラの六つの世界の苦しみなのです。

 これに加えて、不幸・苦痛を味わう明白な苦があります。楽しみと見えるものは変化する苦を与えます。中立的なニュアンスを持つのは、すべて行き渡る苦です。この最後の苦に絶え間なくさいなまれているので、サムサーラのどこにいようと変わらないのです。たとえ宇宙を征する転輪聖王になろうとも、ブラフマン、インドラになろうとも、苦を乗り越えたことにはならないのです。

 それゆえに、サムサーラとは牢獄のようなものであり、底のない穴、燃え上がる巨大な炎であると確信し、今現在から常にできる限り、そこから解放される方法を求めなければなりません。

【解説】サムサーラとは“循環する”という意味で、果てしなく生・病・老・死・生・病等のサイクルを繰り返すことを意味しています。サムサーラを推進させ、永続させているのものは、無智と十二縁起と呼ばれる仕組みです。

 誕生には四つの方法があり、それぞれ子宮、卵、熱と湿気、奇跡的な変化による誕生です。これらの誕生によって、地獄・餓鬼・動物・人間・阿修羅・神々の六つの世界のどこかへ生まれ変わります。最初の五つは欲界にあり、神々は三界、すなわち欲界・色界・無色界にまたがっています。

 しかし、どこの生まれようと苦からは逃れられないのです。

 それぞれの世界が、本文にあるように、それぞれ独特な不利な点を持っています。三つの一般的な苦、つまり苦痛、変化すべてに行き渡る苦の三つは、すべての世界に共通しています。

 最初の苦は、病・死等の明らかな苦痛です。

 変化の苦は、美味しい食物、田舎の散歩といった一見楽しいと思われるものが、胸焼けの原因となったり足のまめの原因になったりすることを示しています。

 すべてに行き渡る苦というのは、普通の人には不明確で、感じることのできない苦なのですが、空(くう)を認識している聖者は、これをはっきりと知覚することができます。これは、手のひらに乗せた毛は痛くないのに、それが目に入ると非常に痛いということに例えることができます。これは、汚れた蘊(うん)を持って生まれることに付いてまわる苦で、この蘊が、それ自体の性質として、磁石のように病・老・死を引き付けるのです。

 これらのサムサーラの不利点について瞑想することによって、サムサーラを離れる心、あるいは苦から完全に自由になりたいと願う心の状態を作り出すことが必要です。これがヒナヤーナ(小乗)を修行する動機となり、この動機と空の理解とによって解放がもたらされます。

 しかし、解放を妨げている障害だけではなく、全智を妨げている障害も克服するためには、もっと先に進む必要があります。

 離脱する心に加えて、菩薩としての動機を培う必要があります。すべてのサムサーラの生き物が苦を経験すること、そしてあなたと同じようにその束縛から自由になり、絶対的な幸福を願っているのだということを理解して、自分と他の生き物たちの両方を解放するために、仏陀になるよう努力しなくてはなりません。この動機によって、空の理解に特別な力が加わり、解脱がもたらされるのです。

 もし、このサムサーラを超えた状態であるヒナヤーナの解放を達成したとしても、絶対的な幸福を得たわけではありません。ゆえに、何としてでもこの無二の解脱に到達するよう努力をしなくてはなりません。

 そのためには、すべての生き物は一つの例外もなく、無始の過去から優しい自分の父・母であるという確信を持ち、「わたしは絶対に彼らを、比ぶるもののなない至福をもたらしてくれる完全な解脱へと導くんだ」と考え、正真正銘(しょうしんしょうめい)、菩薩としての動機を培うことが必要です。この方向に向けて努力することです。


4 貴重な人間としての生

 このような修行の土台となっているのは、貴重な人間の身体です。この人間の身体は、非常に得ることが難しいものです。ゆえに、無関心になったり、怠惰に流されたりすることなく、全身全霊を傾けて修行に打ち込まなければなりません。

 もしこの恵まれた身体が、死や無常によってさらわれてしまったら、手ぶらで行かなくてはなりません。もしそのようになってしまったらどうしますか?この貴重な人間の身体は得難く、簡単に失われてしまうものであるがゆえに、いかなるときでも、いかなる状況においても、目的を失うことなく、貴重な人間としての生を成就しなくてはならないのです。そのために努力すること、これが貴重な人間としての生の瞑想です。

【解説】法を学び、実践できる自由と機会に恵まれた人間としての身体を持つということは、非常に稀なことなのです。この人間としての身体という乗り物を上手に使うことによって、解脱を得ることができますが、注意していないと低い世界に落ちてしまうことになります。このような身体を得ることができたのは、功徳と洞察の集積があったからで、特に戒を守り、祈りを行なった結果によるものです。

 シャーンティデーヴァは、人間としての生を得る確率は、海底に住み、百年に一度だけ海上に頭を出すめくらの亀が頭を出したときに、ちょうど折りしも風に吹き飛ばされて流れてきた金のくびきに頭を入れる確率にも等しい、と述べています。

 この例えにおいて、亀は魂、めくらであるのは無智の象徴、海底は低い世界を示しています。また、海上に頭を出すのが転生、金のくびきが貴重な人間としての生、それが風に吹き飛ばされるというのはカルマの有為転変(ういてんぺん)を示しています。

数とう観点からも、人間としての生は貴重です。地獄の住人の数を砂漠の砂粒とするならば、餓鬼の数は空中の塵(ちり)の数、動物は夜空の星、そして、人間は昼間の星の数に例えられると言われています。

 一国に住む人間の数を調べるのは、何とかできるでしょう。しかし、同じ国に住む動物・昆虫・微生物の数を数えるのは不可能です。それを考えれば、人間としての生がいかに貴重か理解できるでしょう。さらに、世界の人々の中で親切な心を持った人の数はさらに少なく、法に従う自由、機会、指向性を持った者の数となると、これはもう存在しないにも等しいのです。

 ゆえに、人間としての生を受けたなら、それを無駄にしてはいけません。死はあまりにも早く訪れます。海に宝を探しに行って、手ぶらで帰るようであってはなりません。一時的な楽しみに心を奪われることなく、法を実践し、永遠に続く究極の幸福を手に入れてください。

5 成功の因となる条件
 
 修行を成功させるための四つの条件の一つ、成功となる条件の原因となる条件とは、無常ということについて考え、心をそれに慣らし、離れようとする心を培うことです。そしてさらに、自分および一般的事柄に関して、すべてのサムサーラの事象の不満足な性質を理解し、サムサーラに引き付けられる衝動から自分を切り離すことです。

【解説】視覚的知覚の因となる条件が、対象の地・水・火・風・空のエレメントであり、知覚のベースが目であるように、この一般的な準備修行も、瞑想修行のための土台の積み重ねなのです。

6 一番の条件

 自分自身を完全なグル、例えば派に属するグル、仏陀釈迦牟尼の言葉であるグル、究極の真実としてのグル、目に見える現われとしてのグル等に対して捧げ、帰依しなくてはなりません。なぜならばグルによって愛されることが成功のための第一条件だからです。よってこのように帰依します。

【解説】視覚的知覚の第一条件は、目の知覚する力です。同様に帰依の力によってすべての洞察をなすことができるのです。

7 客観的条件
 
 すべての宗派的感情、および偏見から自分を切り離さなくてはなりません。なぜなら、これらの宗派はすべて、帰属および精神的な分類によって成立したものであり、弟子を解脱に導くためのしきたりに過ぎないからです。すべての派は皆矛盾しておらず、どの派に従っても、すべての事象の不変の状態である、根源的真実に到達できるのだという確信を培うことが必要です。これは、瞑想の対象に欺かれないための客観的な条件であり、ゆえに確信を持つことが必要なのです。

【解説】インド、チベットで数えを説く宗派は、すべて仏陀釈迦牟尼から派生し、様々な性質を持つ弟子たちを巧みに究極の真実の認識へと導く、仏陀の教えの表現と言えます。これらの宗派は同じことを別の方法で説いているのですが、言葉であるがゆえに人々がそれを分類し、名前を付け、派として成立させたのです。どの派も矛盾していないのです。視覚的知覚の客観的条件が視覚物であるように、心の本質を理解するときに宗派にとらわれないことが、修行を成功させるための条件です。

8 直接条件

 瞑想に対して衝動的な執着を持たず、心から真剣な努力をなすことが大切であると同時に、瞑想するときどんな期待も心配もしてはなりません。

 それは例えば、「今瞑想すること、あるいは未来において瞑想すること、または過去において瞑想したことは価値があった。しかし、もし瞑想していなかったり、これからもしなかったなら、自分には何の価値もない」などと考えることです。

 期待や心配を持たないことは、成功のための直接条件です。よって、計算のない心の状態で修行しなくてはなりません。

【解説】視覚的知覚のための直接条件は、知覚の連続性をもたらす知覚前の意識です。上記の心の状態は、マハームドラーの瞑想において似たような機能を果たします。

 これで準備段階の修行は終わりです。



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